❖ 医王院のご紹介


 富山県小矢部市にある浄土宗の寺院です。

慶雲3年(706年)に創⽴され、天平元年(729年)に聖武天皇より、医王院の勅額を賜っております。天⽂⼗⼆年(1543年)に兵⽕にかかり堂宇が焼失し、同⼗五年(1546年)、現在地に再建されました。

 

 本尊は銅造阿弥陀如来坐像です(当院上⼿に位置する若宮古墳より発掘されました)。

 他にも寺宝として僧形⼋幡神坐像、病患除 薬師如来等をお祀りしています。平安時代作の銅製阿弥陀如来像と、桧木作りで鎌倉時代作の僧形八幡神像は共に富山県の指定文化財です。


 本尊の銅造阿弥陀如来坐像は、像高8㎝、幅4㎝の銅製坐像です。

円形二重座上で、敷茄子を置き、蓮華の上に結跏趺坐して、法界定印を結ぶ小像です。蓮華の布教状態や法身の袈裟、袖衣ひだ、額の様相が平安時代中期から末期の様式です。これは一茎三尊、または五仏一連の一仏の様です。

 

 僧形八幡神坐像は、檜一木造りで、像高41㎝、幅25.5㎝、円頂で双手を組み、納衣に袈裟を着けた鎌倉時代の作です。。

この像は前後の厚みが薄く、腰以下が簡略にされて神像として造られ、護国八幡宮に神像と共に祀られていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により、僧形であったので、当医王院に遷座されました。


 病患除  薬師如来菅原寺の行基菩薩の真作で、諸々の病難を除く霊験あらたかな尊像です。

四十二代文武天皇が諸国巡行で、倶利伽羅山の麓埴生の里にご滞在のおり、慶雲三年の夏、諸国が天変地異で軒毎に病難・死者が多く、行基菩薩大悲願でこの尊像を彫刻し、偏に念誦し人民とともに信仰すると、利益大きく病難忽ちに退散し、その法力に驚き、里人の帰依渇仰する者が多くなりました。

 その後、孝謙天皇から若宮山医王院と勅号を賜り、摂州山崎寶寺の末寺に属し真言宗に改めました。また、幾度となく尊像より霊告感じ、浄土宗に改め、長く専修念仏の道場となりました。

 天文十二年春、兵火にかかり、堂塔殿廊及び民家等一時に焼失のおり、ご本尊を移す暇もなく、諸人悲嘆の涙と共に遥か山上に火煙を見ると、そのあたり四~五丈程が金色に光っており、火災の鎮まるを待って近づいてみると、尊像がくすぶりながらも、歴然と安座していたそうです。以降益々霊験新たにして広く世に知られるようになりました。

 千二百余年を経てなお利生いよいよ顕われ、難病を免れ未来は極楽に往生すること疑わず、謹んで拝礼あるべきものと記されています。

 (当解説は、当院薬師如来の縁起書より要約抜粋)


 ◆ 十王像

慶長17年(1612年)及び寛永7年(1603年)作。

奥方・御殿女中らが施主になり、2代加賀藩主 前田利長の病気平癒・二世安楽を祈願して寄進されました。

⼗王の他に司令、司録像も揃っています。
8⽉22⽇の閻魔会、またご予約の団体参拝者の⽅には御簾の開帳を⾏います。

昭和63年(1988年)に小矢部市指定有形文化財に指定されています。

 




仁王像の洞内より発見された「源頼朝寄進状」

慶⻑3年(1598年)

  ◆ 仁王像

 仁王像は鎌倉時代から室町時代に制作されたものです。

この仁王像の洞内より、慶⻑3年(1598年)に「源頼朝寄進状」(直筆)が発⾒されました。

(石川県津幡市重用文化財)

十王像と同様長楽寺(現 俱利伽羅不動寺)に安置されていましたが、廃寺に伴い医王院に移され、中世で制作された仁王像としては大形で、小矢部市内では珍しいものとして、1988年に小矢部市指定有形文化財に指定されています。



◆ 倶利伽羅峠三十三観音

 慶⻑年間に、石川県津幡町⽵橋から倶利伽羅峠を越えて、⼩⽮部市埴⽣までの沿道に、道標として祀られていた「倶利伽羅峠 三⼗三観⾳」の内の⼗⼀体が医王院に安置されたといわれています。

 境内には、倶利伽羅峠三十三観音の中の、10番・11番・16番・21番・22番・23番・24番・27番・28番・31番・33番の石像が安置されています。